Twitterと自慢、それを見て病むことについて

今回はTwitterが持つ一つの側面について個人的に考えたことを書こうと思います。これは個人的なエッセイのようなものなので、需要はなく、実際には大して読まれないでしょう。しかし個人的に書きたいテーマなので書くことにします。

最近になって、Twitterにおけるほとんどのツイートは「自慢」の側面を否定できないことが気になってきました。

そしてそういった自慢を意味もなくダラダラ見ていると、ときに心が疲弊してきて何のためにTwitterをやっているのか分からなくなるときがあります。

極論すると自慢

斜に構えた見方かもしれませんが、ほとんどのツイートは言ってしまえば自慢です。

「今日はこんな美味しいものを食べました」
「今日はこんな友達と遊びました」
「今日はこんな楽しいイベントに行ってきました」
「今日はこんなに素晴らしいアイテムを手に入れました」

どんな形であれTwitterをやっていると毎日毎日こういったツイートが洪水のようにTLに流れてくるはずです。

もちろん僕自身もこういうツイートはします。

僕は音楽関係の趣味をトピックとしたTwitterアカウントをここ数年動かしており、ライブに行けばその楽しかった思い出を写真付きでツイートします。

音楽というトピックと関係なくても、普段と違うものを食べたときは写真をパシャっと撮ってツイート、ちょっといいことがあったらそれもツイート。

こういった僕自身のツイートも結局は、自慢という側面があることに前々から気づいていました。

なぜ自慢したくなるのか

なるほど何であれ良いことがあったら人に話したくなるのは分かります。僕もしますから。ではなぜ人はそうやって自慢をせずにいられないのか。

それは「人が楽しさを本当に実感できるのは、他人とそれを共有したとき」だからだと思います。

これは以前読んだ何かの本で引用されていたフレーズを分かりやすくしたものです。(つまり又聞きの又聞き)

言い換えると、人は何か楽しい経験をしても、一人ではその楽しさを体の芯からは実感できません。「~が楽しかった!」「~が嬉しかった!」と他人の耳に入れて初めてそれが楽しい経験だったと本当に実感ができるというわけです。

もちろんこれは人の感情の全てではないでしょうが、僕としてはこういう側面は大いにあると認めざるを得ません。この記述を初めて本で読んだときは「なるほど確かに」と思わず膝を打ちました。

幸せの切り貼りに過ぎない

話を少し戻して、Twitterの自慢的側面についてもう一度考えます。

僕もそうであるように、Twitterを使って人々は「自分の生活の良い面」をピックアップしてツイートします。

もちろん現実には100%幸せの切り貼りしかしていない人はいないでしょう。ただ、僕の観測範囲内では自慢的側面のあるツイートがメインの人が多いように思います。(誰の特にもならない愚痴・悪口・文句しか言わないタイプの人など例外はあります)

すると何が起きるかというと、あたかも生活が極めて充実しているように見える人が日本中に爆誕します。美味しいもの、仲のいい友達、高価なアイテム、楽しい経験で毎日が彩られたハッピーな人物像がそこに生まれます。

しかし冷静に考えると分かることですが、一部の超例外的な人を覗いてそんな完璧な生活を送っているひとはいません。

あくまで幸せな出来事を「切り貼り」しているだけです。どんな生き方をしているにせよ誰しも良いことも悪いこともあるはずです。

満たされない生活の裏返し

自慢ツイートをする心理については、すでに「人は楽しさを他人と共有して初めてそれを実感できる」という理屈である程度説明しました。

そこから一歩進んで、なぜ人は「幸せの切り貼り」までするのかについて考えます。

これは僕の勝手な推測なのですが、幸せの切り貼りをするのは満たされない生活や不安の裏返しだと思っています。

本当は生活に満足はしていない。でも何とか自分は幸せであると思っていたい。だからせめてSNS上の人物像だけでも幸せな自分でありたい…。

これもまた非常に斜に構えた見方なのは承知ですが、僕自身がTwitterを使うときこういう心理があるのは否定できません。そして他のユーザーについても、こういう側面はあるように見えます。

かつて実際に会ったことがある当時20歳くらいの女性が「人は自分にはないものを、あたかも持っているように他人に見せたがるものだ」的なことを言っていました。

これもまた言い得て妙。思い返すとあまりにも恥ずかしいので具体的には書きませんが、僕自身もこういうことをたくさんしてきました。

なるほど確かに自己完結的に満足していることについてはわざわざ他人の承認を必要としないので、他人の目を気にする必要はありません。

しかし自分が心の底で不安に思っていることについては、その不安をかき消す「何か」が必要になります。

その何かというのが、時として自慢的ツイートや幸せの切り貼りになるのだと僕は思います。

一方、見てる方は病む

自分の幸せをピックアップし、Twitterで自慢的ツイートとして他人の目に入れる。するとあたかも生活がハッピーで仕方がない人間がSNS上に爆誕する。

一方それを見ている僕は(自分も同じようなことをしてはいながらも)、ハッピーな人たちへの嫉妬が少しずつ積もり積もって、果ては病んでくる。

これはあくまで僕の経験に基づいている以上、主語は僕としましたが、Twitterをやっていれば誰しもこういった感情は持つと思います。

 

何気なくTwitterをしていた頃は、こういった感情についてほとんど意識していませんでした。たまに気分が悪くなることはあっても、トータルではTwitterをやるメリットの方が大きかったと言えます。

ただ本記事を書くに至った最近になって、そのバランスが崩れてきたように思います。

ここで僕のTwitterの使い方について少し書きます。そうしないとこのバランスの変化を説明できないので。

僕はあくまで音楽関係の情報収集や、”その趣味においての”楽しみを同じ趣味の仲間と共有するためにTwitterアカウントを使ってきました。だから基本的にそのTLで見たいのは、その趣味のことなわけです。

だからその趣味においての他人の幸せを目にしても、それは自分がもともと想定している情報ですから嫉妬はしません。少なくとも僕にとっては、互いに消耗しない楽しみの共有ができていると思います。

ただTwitterの使い方というのは人それぞれですから、ある程度のフォロー関係を持てばTLには色々な情報が流れてきます。僕の趣味に全く関係がなく、幸せの切り貼りをした自慢的ツイートとしか言えないツイートも目にすることになります。極端な例では、露骨な金持ちアピールには辟易してしまいます。

それがダメだとは決していいません。しかし最近は、そういった不毛な情報の濁流についていけない自分に気づきつつありました。

その理由の一つにはコロナ禍があると思います。コロナの流行にともなって、その音楽関係の趣味もかなり制限されることとなりました。

するとそのアカウントでツイートすることも自然と減っていきます。TLでもその趣味の話題が(あくまで傾向としてですが)減っていったように思います。

 

具体例を1つ挙げると、毎日毎日美味しいものがTLに流れてくるのを見て自分に一体何のメリットがあるのだろうと思うようになりました。

現在僕は半分は必要に迫られて、半分は実用的なメリットを求めて、ふだんは質素な食生活をしています。

特別美味しいとは思いませんが、この食生活のおかげで体型やお通じ、肌の質感は人生史上最高の状態になりました。食費も月1万円くらいです。

僕は、一人でこういった食生活をしている分には不満はありません。ところがそこに「他人が美味しいものを食べている」という情報が入ってくると、ヒビが入ってきます。

これは重箱の隅をつつくような一例に過ぎませんが、こういう矛盾が積もり積もって、Twitterに疑問を持つようになりました。

 

誤解のないように書くと、僕はそのアカウントで現在つながっている人たちのことはみな大好きです。ただでさえ交友関係の狭い僕にとっては宝物です。

そしてTwitterに限らずSNSというのは本来自慢するためのツールです。

なので何が悪いとかダメとかそういう話ではなく、単純に僕がSNSに向いていないというに過ぎません。

 

ついでに書くとTwitterはまだマイルドな方で、実名ベースのFacebookはさらに凶悪なSNSだと思います。

思い返すと、今Twitterで感じているのと全く同じ構造がイヤになって、数年前にFacebookは完全に使わなくなりました。

僕のツイートも自慢に過ぎない

Twitterに上記のような構造があると思うようになってからは、結局は僕自身のツイートも他の誰かへの自慢であるという認識が強くなりました。当然です。

僕がハッピーな出来事をツイートすると、それは誰かにとっての自慢になるわけで、知らずしらずのうちに誰かの心に暗い影を落としているかもしれません。

こう考えた末に、自慢的なツイートはマイナスサム(※)的な行為なのではないかとも考えるようになりました。
※足してマイナスになること

つまり、自慢している本人はほんのちょっぴり刹那的に満足できるかもしれませんが、それを目にするその他大勢への心理的負担を考えると、トータルとしてはマイナスなのではないかと。

ここまでくるとちょっと考えすぎかもしれません。ただ、自慢合戦を繰り広げると幸せのハードルは互いにどんどん無意味に上がってくように思います。大国どうしの不毛な軍拡競争と同じです。

幸せなるには、人と比べないこと

人は誰しも幸せになりたいと思わずにはいられないものだと僕は思います。

そして、現代社会で幸せになるための重要なポイントの一つは、よく言われていることですが他人と比べないことです。

本来便利なツールであるはずのTwitterを初めとするSNSは、この原則を守ることを極めて困難にしているように思います。

かつてまた別な人が「Twitterをやっているうちは幸せにはなれないだろうけど、やっぱりやめられない」といったツイートをしていました。

上の原則に照らせば、これはまさしくそのとおりで、(よほど特殊な使い方をしていなければ)SNSをやっていて自分と人と比べないことはまず不可能。

SNSは人を不幸せにするツールだとは言いませんが、正直必要でないならやらないに越したことはないと思います。

おわりに

以上、Twitterを使っていて個人的に感じたことについて書きました。

もちろんここに書いたことは、Twitterや人間の心理の無限にある側面からほんの一部を抽出したものに過ぎません。

僕にとって時にタイムラインは、血で血を洗う自慢合戦に見えることがあります。しかしそれはSNSに本来向いていない僕の色眼鏡を通した姿です。特に不満なく楽しんで使えている人もいると思います。

色々書いてきましたが、僕はTwitterをやめるつもりはありません。やっぱり趣味の情報を集めるには今のところTwitterが一番早く、互いに消耗しない楽しみの共有の仕方もあると思います。

やるかやらないか、ゼロかイチかという極端な考え方ではなく、程よい距離感を保ち、深入りしすぎない工夫をしながら楽しみたいと思っています。