レイ・ブラッドベリ「華氏451度」読書メモ

レイ・ブラッドベリの『華氏451度』 個人的読書メモ。

ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」を2か月かけて読んだ後に、Amazonでレコメンドされたので華氏451度を久しぶりに電子で読んでみることにしました。

実は10年前にも読んだことがあったのですが、そのときはカラマーゾフ同様、メインテーマすらも掴めずに終わりました。「なんか深いこと言ってそう」という印象が残ったくらい。ただ、それから10年経ったことで今回は割と意味が分かる箇所が増えて、悪くない読書体験となりました。


華氏451度(以下、華氏)はFireman(消防士的な存在)が火を消すのではなく反対に本を燃やして「焚書」するという面白い設定が目を引きます。この時点でディストピアSFとしてけっこう面白い。

ただ小説内で燃やす対象となっている「本」というのはあくまで比喩と考えていいでしょう。個人的な解釈としては、ここでいう焚書とは「思考」や「思想」そのものを否定するような行為であると理解しました。

では、なぜ思想を禁じるのか。個人から思想を奪うと、誰にとってのどのようなメリットがあるのか。それを考えながら読んでいくのが、華氏の面白いところだと思います。

僕の解釈では、「思想なんて持たない方が個人にとっては幸福だ」というメッセージがあちこちの描写から感じられました。カラマーゾフ的に言えば、合理主義者のように自分だけの価値体系の中で自由に生きようなんてことはせず、神が与えるストーリーを盲信してその中で生きている方が楽だ、みたいな感じ。

ものすごくざっくり言うと、物事を深く考えなければ、それだけ内面の葛藤や問題意識は生まれにくくなるとも言えます。よって、もし仮に個人の中から思想を限りなく取り除くことが出来たとしたら、そこにはある種の安心や平穏があるとは言えないでしょうか。

しかしこの思想の禁止というのは個人が自発的に行うものではなく、人間の集団の中に自然と立ち現れてくる現象であるように思います。身近な例で言うと「出る杭は打たれる」とか「ことなかれ主義」が近いと思います。例えば、みんなが特に気にしていないことについて突然誰かが「これって本当に正しいのか?」とか「これって問題じゃない?」みたいに問題提起し始めると、面倒くさがられますよね。たとえそれが理に適っていたとしても、安定状態に落ち着いている集団から見れば、和を乱す異分子でしかないわけです。だからそういう異分子が生まれないように、予め思想を禁止しておく。そうすれば問題を認識することもない。

これは人間集団における普遍的な性質と言っていいと思います。自分が生きている社会にも全く同じように適用できるため、とてもリアルな実感を持って読むことが出来ました。テクノロジーが進歩しても人間の本質は変わりません。


この手のディストピア小説は予言書みたいになっていることが多いと思います。1984も華氏も、今の我々の生活とぴったり一致するような点が多くあって、「人間の本質を見抜いている感」がありました。

個人的にまず面白いと思ったのは、「マジで何も考えていない妻とその仲間たち」の描写。

実は、華氏を読み始めて最初の1/5くらいまでは、特に妻ミルドレッドとのやりとりが意味不明すぎて読んでいてとてもイライラしました。変わった表現スタイルの小説なのではとも冗談抜きで思いました。ミルドレッドはとにかく支離滅裂で、マジで話が通じていない。というか何も考えていないように見える。

しかしそれ以降も読み進めていくと、そのイライラにこそ意味があったのだと理解できました。おそらく、ミルドレッドは思考の放棄の結果生まれた抜け殻の存在として描かれているのではないでしょうか?その主婦仲間たちも同様で、理屈の通った会話が全く出来ていないように見えます。

彼女らの興味は、もっぱらテレビのようなデバイスから流れるコンテンツに集中しているようです。これといって意味のない内容が延々と垂れ流され、特に何考えずそれを見続けているような感じ。

ただ、これも現代にぴったり当てはまる内容だと思うのです。テレビやスマホから流れるコンテンツをだらだら眺め続ける。思考を一切必要としない娯楽をただひたすら消費し続ける。それは現代の僕たちも同じとは言えないでしょうか?別にそれが絶対的に悪いことと言うつもりはありません。なぜなら前述のように、思考が存在しなければ苦悩も問題意識もないからです。思考の放棄は確かにメリットがあります。

しかし、そこで失われてしまう何かを惜しむ気持ちを、著者はこの本の中で表現したかったんじゃないかなと僕は思いました。ものすごくかっこよく言うと「知性」とか「構造を見抜く視点」とか。


これに関連して、興味深かった点がもう1つ。

この世界で広く普及しているコンテンツの特徴として、「誰のこともちょっとも傷つけない、特徴のないコンテンツ」みたいな表現があったと記憶しています。これも現代にめちゃくちゃ当てはまると思いました。

思うに、時代を経るごとに、世の中のコンテンツからは「棘」がどんどん剥がれ落ちていっている感じがします。何も批判しない。何も刺激しない。何も突っつかない。何も特徴を持たない。みたいな感じ。これもまた、前述の「思考の放棄」の1つの側面のように個人的には思います。

没個性とはまた少し違う感じもするのですが、こういった潮流の中では、「物事の本質」が見失われていくような感覚が僕の中にあります。昔の小説を読んでいると、物事の本質やありのままの姿がバシッと書いてあって痛快な思いがします。一方で、そういう作品は時とともに出てにくくなっていって、誰も何も刺激しない、無難なコンテンツ化していっているように見えます。

なぜ世の中のコンテンツは無難な内容になっていくのか。この答えも先ほどの議論と全く同じで、「異を唱えることは和を乱すから」ではないでしょうか。和を乱すと誰かが不安や憂鬱になる。それであれば、もう最初からコンテンツの棘を全て削ぎ落として、無難なものだけで世の中を満たす。そうすればみんな何も考えず安心して生きているじゃないか、というわけです。


というわけで、華氏は個人的にかなりぶっ刺さるテーマの小説だったと言えます。10年ぶりに再読して良かったと思いました。最近読み直したカラマーゾフとも共通する部分があると感じましたし、僕が何度も読んでいる1984ともかなり近いです。

ただし本音を言うと、読みづらいと感じる部分もかなりありました。テーマ自体は面白いんだけど、なんというか詩みたいで頭に入ってきづらいと感じる部分がちらほらあります。また、華氏には過去の文芸作品からの引用がたくさん出てきます。これも読書中の引っ掛かりの一因になっていたかもしれません。教養があればそういう部分も楽しめるのかもしれませんが。

よく引き合いに出される1984よりはだいぶ読みづらい印象を受けますが、セットで読んでおいて損はない1冊だと思います。