ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』から個人的に読み取った内容について。第2回目。
【前回】人間は安心のためのストーリーなしに生きていけない(カラマーゾフの兄弟から①)
前回は、この小説の重要なテーマのうち、個人的に特に興味深く感じた部分について僕なりにまとめてみました。
前回の内容をまとめると、
1.この世界は本来、何の意味もストーリーも価値体系も存在しない、むき出しの不条理そのものである(神がいないと仮定するとそうなる)
2.しかし人間という生き物は、むき出しの不条理を直視できない(=意味がないということに耐えられない)
3.よってこの世界の不条理を直視せずに済むようなストーリーが人間には必要となる
となります。
あくまで個人的な理解なので、専門家がどう思うかは分かりません。
今回は、この続きの話を書いていこうかなと思います。
前述のストーリーの必要性というのは、この小説の主題というよりは前提みたいな感じが個人的にはしています。というのも、この小説に出てくる登場人物たちは、この世界の不条理を前に、それぞれ違った生存戦略で戦い、生きているからです。色んなタイプがいます。
しかも重要なのは、この小説では別にどれかが正解という押し付けがましい書き方をしてはいないということです。それぞれの生存戦略を平等に描いている点が、この小説が評価される理由の1つなのではと思いました。なぜなら、もしも誰か1人の立場に贔屓した内容だったなら、小説としてのメタ度合いがもっと浅くなってしまいます。壮絶な人生を歩んできた著者自身も、どれか1つのアーキタイプにすっぽり収まってしまうことは出来なかったのではないでしょうか。
とはいえ、読む側としては必ずしも登場人物を平等に扱うというわけにはいきません。読者もまたそれぞれ人間としての個性があるわけで、「自分はこの登場人物に共感できるな~」という感想は誰しも多かれ少なかれ出てくるはずです。
では僕の場合はどうかというと、インテリの合理主義者イワンが最も共感できる登場人物でした。しかしそれ以外にも、「全ては許される」を地で行くスメルジャコフにも悲しい共感を覚えました。人間の弱さと、ストーリーによって安心を得る構造を見抜いた上で、人々を愛で包み込むゾシマ長老のスタンスも、一周回ってかなりしっくり来るものがありました。
反対に、ドミートリイのような人物は現実に確かに存在はするとは思うものの、個人的にはほとんど共感出来ませんでした。あれはあれで美しいあり方だとは思うのですが・・・。
僕はこの小説をなるべくフラットな視点から読んだつもりではあるのですが、正直、相当イワン的な視点に引っ張られてはいると思います。前回の記事で個人的にまとめた内容も、結局はイワンの台詞からエッセンスを抽出したような内容でした。
「不死がなければ善もない」と言い出したのもイワン。大審問官をアレクセイに聞かせたのもイワン。この小説を読んでいて特に楽しかったのは、やっぱりイワンが出てくる部分なんですよね、個人的には。
それもあって、彼の苦悩もけっこう共感できる部分が多くありました。具体的にいうと、
「非合理的なストーリーを信じることで、この不条理な世界の中で自分も安心を見出したい。でも、合理主義者である自分にはそれはどうしても出来ない」
という部分です。はっきりとそう書かれていたわけではありませんが、イワンはこのような苦悩を抱えているように僕からは見えました。
この共感を説明するためには、僕自身のことをちょっぴり書かないといけません。
自分で言うのも変な感じがしますが、僕は自分で自分のことを合理主義者だと考えています。大学で理系の道に進んでからというもの、僕は「合理性こそ神の言葉である」と信じるようになりました。別に宗教的な意味は全くありません。つまり、僕にとってこの世界において合理的であることと正しいことはイコールなのです。理に適ったことこそ正しいのであり、理に適わない非合理的なことは正しくないのです。
僕は子供の頃から漠然と、根拠のないものへの違和感を覚えてきました。もちろん当時はそういう感覚を上手く言葉にすることなど出来ませんでしたが、頭の中には確かにあったのです。これは「合理的なものこそ正しい」という価値観の小さな萌芽だったと思います。大人たちの言うこと、やることは時として筋が通っていない。彼らは根拠を説明できない。彼らはなぜ非合理的な考え方で生きているんだろう?と思うことが少なくありませんでした。
それが先ほどの合理主義者の葛藤の話と繋がっているように思います。
人々の中には、ストーリーを信じることで、この世界のむき出しの不条理から身を守り、安心出来る人もいます。子供を幼くして亡くしゾシマ長老に助言を乞うた女性のように。
しかし、小説の中の無神論者たちはそういったストーリーを信じられないため、非合理的な価値体系の中で生きるという生存戦略を取ることが出来ません。
登場人物たちの中には実はけっこう無神論者はいて、その中にも色んなタイプの人間が出てきますよね。その中で、僕が特に共感したのはやっぱりイワンでした。友だちになりたいくらい、本当に大好きなキャラクターです。人々がストーリーの中で安心する様子を構造として見抜きながらも、自分はその中に入っていけない。自分もストーリーの中で安心したいと強く願うも、非合理的なことなど到底信じられない。それゆえに、この世界の不条理、意味の不在の中で苦しむ。
マジョリティ的な価値観の人々から見れば「何言ってんだお前は」って感じでしょうが、これが僕なりの解釈となります。
では、ストーリーを信じられず、城壁の中で安心出来ない合理主義者はどうなるか?それに対する著者なりの答えが、終盤のイワンが抱えた自家中毒なのだと思います。スメルジャコフの最期も同様です。
実を言うと、終盤でのイワンやスメルジャコフの扱いを見ていて、僕はホッとしました。もちろん、彼らが嫌いだったからでもなければ、ひどい目にあってほしいと思ったからでもありません。僕から見て彼らは、最後の最後までこの世界のむき出しの不条理を直視し続けたからです。
なんというか、僕から見れば、非合理的なストーリーの中に安住することは「正しさの敗北」なんです。なぜなら非合理的なことは僕にとっては正しくないからです。彼らは神を信じませんでした。正しさを追い求めて何の救いもない不条理の荒野を覚悟持って歩き続ける姿は、僕にはとてもかっこよく見えたんです。
また、このような救いのないプロット自体に対しても僕は好感を覚えました。なぜなら、それがこの世界のあるがままの姿だと思うからです。昔の小説だからなのか分かりませんが、ご都合主義的な部分やマジョリティへの安易な迎合と捉えられる部分がないというのが、本書の魅力の1つだと思います。
例えばですが仮に、イワンやスメルジャコフがいつの間にか神を信じるようになるようなストーリーだったら、とんでもない興ざめではないでしょうか?今更言うまでもありませんが、カラマーゾフはそんな浅い小説では決してないわけです。その点は安心して読んでいいと思います。
ドストエフスキーは主にイワンとスメルジャコフを通じて、無神論者たちが抱える苦悩を描いたと思います。ドストエフスキーの他の作品でも大体無神論者たちは解決不能な問題で苦しんでいるように見えます。罪と罰のスヴィドリガイロフとか。
前回の記事で散々書いたように、やっぱり人間は神(価値体系)なしに生きられるほど器用な生き物ではないと、ドストエフスキーは何度も繰り返し主張にしているように見えます。
しかもイワンは無神論者たちの中でも別次元の苦悩を与えられています。なぜなら、彼はこの構造を俯瞰しているからです。まあ構造を見抜かずに苦悩する無神論者たちもしんどいのは間違いないですが、個人的にはイワンのような立場の方がより複雑な葛藤を強いられるように思います。
この点では、イワンは1984の主人公ウィンストンとそっくりです。ウィンストンは真理省で働く職員でありながら、ダブル・シンクのおかしさに気づく。それをどうしても受け入れることが出来ずに破滅していくさまは、イワンとぴったり重なりはしないでしょうか?
中二病だと言われるのを覚悟で書きますが、正直なところ僕は、1984のウィンストンにもとても共感しました。僕たちが住む現実の世界においても、なぜか合理的なことと非合理的なことが同時に正しいものとして扱われている(何がとは言いませんが)。そして、人々の大多数はなぜかそれを疑問にも思わず平然と暮らしている。でも自分はそのおかしさをどうしても納得できない。そう考えることが僕自身よくあるんです。
普段から僕が頭の片隅に持っているそういった感覚をどんぴしゃりと書き表しているという点で、カラマーゾフの兄弟も1984もとても大好きな作品です。