要点
・いわゆるギャルゲーをクリアしてしまうと、他では味わうことのない種類の悲しさや喪失感で辛くなる。
・ある時点を境にその感覚が辛くなり、それ以降ギャルゲーが全く出来なくなった。
・その心理の根本が何なのか、10年以上経っても未だによく分かっていない。
・改めてこの独特な心情を分析する。
この記事を書いている時点で僕は30代前半です。
僕がいわゆるギャルゲーと呼ばれるゲームに初めて触れたのは、僕が大学1年生で18~19歳の頃でした。大学で知り合った極めて文化的な友人の勧めでプレイしてみたところ、これまでにない面白さを感じました。初めてやった作品は今でも覚えています。「G線上の魔王」でした。
この手のギャルゲーにハマった要因は複合的なものだったと思います。特に下記のような点で素晴らしく感じることが多く、それらが合体したことで全体として魅力的なコンテンツとして僕の目には映っていました。
・イラストが綺麗、かわいい。パッケージも綺麗。
・シナリオが面白いものが多い。伏線回収など。
・テーマ曲が良いものが多い。
・(ほとんどのパートで)音声付きなので臨場感がある。
そういうわけで大学1年生の僕は、ギャルゲーの世界にどっぷりハマっていきました。学業以外はほとんどギャルゲーのことを考えていたと言っても過言ではありません。自分で気になる作品を次々に買って、プレイしては感動していました。僕は何かに夢中になると、しばらくの間はそのことしか考えられなくなるタイプです。
そんな時期がおよそ半年ほど続きました。
しかしある時、僕の心情に(いつの間にか)変化が訪れます。これまであんなに楽しかったギャルゲーをやろうと思えなくなったのです。その理由は、
「クリアした後の独特な物悲しさ、寂しさに耐えられなくなったから」
でした。
ここでは「物悲しさ」「寂しさ」という言葉を使いましたが、この感覚を直接表現できる言葉を僕は知りません。おそらく以下に続く長い記述によってしか、それを表して人に伝える手段がないように思います。
そういった感覚をはっきりと自覚し始めたときでさえも、ギャルゲーをやっている間は普通に面白いと感じていました。しかしそれを全ルートでクリアしてしまった瞬間、他で味わうことのないタイプの苦しさを感じ始めるのです。
結局僕がギャルゲーに熱中していたのはその半年の間だけで、それから今に至るまでの10年以上、一度もあの手のギャルゲーを買ってもいなければ、やってもいません。やりたいと思ったこともありません。なので2026年現在ギャルゲー界隈がどういう現状なのかもほとんど知りません。
しかしこれはつまらないからではありません。ギャルゲーというコンテンツに飽きたとか、コスパを考えたからでもありません。おそらく今の僕にとっても、ギャルゲーというコンテンツは変わらず魅力的であると言っても差し支えないと思います。
問題は例の悲しみにも似た心情にあります。厄介なのは、その心情の正体が当時から今に至るまで、自分でもよく分からないということです。
年を取るにつれて、自分の心情や心理を自分で理解することが出来るようになったと思います。例えば、「人に優しくするとき、自分も優しくされたいと思っている」とか「自分の実績をひけらかすのは、実は自分に対する自身のなさの裏返し」だとか。しかし例のギャルゲー問題の本質が一体どこにあるのか、「これ!」と指さすことは未だに出来ません。
僕はこの問題(問題と呼ぶほどのものでもありませんが)をたまーに思い出しながら、10年以上の長い時間を過ごしてきました。最近になって2Dアバター用のイラストを趣味で描く機会があり、その資料集めとして偶然にもギャルゲー関係の情報が目に留まりました。そんなこんなで、ふと思い出したという形になります。
18歳の自分が感じたアレは一体何だったのか。今改めて考えてみると、下記のようになります。仮説を立てそれらに検証を行いました。
仮説1:現実との乖離説
ゲームの中では美少女と関われる。現実との乖離が生まれ、そのギャップに悲しさを感じているのでは?→これは今も昔もハッキリ否定できます。
まず大前提として、僕はゲームの主人公(男性)と自分を同一視していません。つまり、僕はその世界の観察者でしかないのです。ゲームの中の美少女が向ける好意は別に僕に対するものだとは思っていません。
また、(信じてもらえるか分かりませんが)僕は現実世界での恋愛欲求というものがおそらく人よりもずっと少ない人種だと思います。強がりではなく、別に現実でああいう思いがしたいとは望んでいないのです。
確かに、ゲームの中の世界がとても魅力的であり、現実はそれに比べて僕にとって無味乾燥であるのは事実です。しかしそこは現実と虚構との区別として理性的に受け入れていました。これもハッキリといえます。なのでこのありがちな仮説は正しくないと見ています。
仮説2:先がないことへの悲しさ
「その先がなくなる」「キャラクターがもう二度と言葉を発しなくなる」ことが辛いのでは?
→これは半分正解とは思いますが、これだけでは説明がつかない要素があります。
これまであんなにも生き生きと存在していたキャラクターたちがもう終りを迎え、新しいことは何一つ生まれなくなる。これは確かに間違いなく悲しいです。僕が感じた独特な悲しさは複合的なものであり、その一部はこれだったと思います。
しかし、それだけでは説明がつかないことがあります。それは「大好きな物語でも、終わった後に寂しくならないものもある」という事実です。
例えば僕は映画・小説のハリー・ポッターが大好きです。何度も観ています。キャラクターのことも、その世界のことも好きです。しかしハリー・ポッターの場合、最終話が終わったからといって例の独特な悲しさを感じることはありません。これはギャルゲーとハリー・ポッターとの間の大きく明確な違いです。
ハリー・ポッターの最終話が終われば、ハリーもロンもハーマイオニーもそこで終了です。それから先には台詞もストーリーもありません。まあ多少悲しいのは確かですが、特別注目に当たりするほどの感情ではないと思います。
するとやっぱりギャルゲー特有の「何か」があるに違いないと思います。1つは(後で詳しく論じるつもりですが)、「カメラ目線」による没入効果です。
主人公と自分を同一視しようとしまいと、ギャルゲーではキャラクターが基本的にこちらを見ています。彼女らはカメラ目線によって、擬似的にプレイヤーを見ながら話していることになります。一方でハリー・ポッターのような映画の場合は、キャラクターは(超特殊なシーンでもなければ)カメラ目線にはなりません。視聴者は完全なる観察者の立場に置かれます。これはコンテンツの性質として大きな違いだと思います。
仮説3:ギャルゲーの仕組み説
ギャルゲーのUIや仕組みが、脳をハックできるくらい没入感を高める仕様になっている説。
→今のところ、自分の中でかなり有力。
主人公は別に自分(プレイヤー)ではない。そう思ってプレイしていても、ギャルゲーのUIの構造上、あたかも「自分がその世界の一部になったかのような体験となる」節があるように思います。製作者たちが意図しているかは分かりませんが、ギャルゲーには下記のような点で「脳をハックする」仕組みが存在すると僕は見ています。
前述のとおり、ギャルゲーのUIではキャラクターが基本的にカメラ目線でこちらを見ています。つまり視覚的にはキャラクターはプレイヤーと目線を合わせながらコミュニケーションを取っていることになります。擬似的なものであり、虚構であっても、少なくとも視覚の上ではそうなっている。これがまず第一。
次に、物語の進行においてもプレイヤーは映画の場合以上に関与することになります。映画の場合、再生されたものをただ眺めているだけで話が進んでいきます。一方でギャルゲーの場合、
・プレイヤーがクリックする
・キャラクターが次の台詞を喋る(音声付きで!)、あるいは次のシーンに進む、ルートが変わる
といった形で、物語を進めるのはクリックするプレイヤーの役割です。
やっぱりここでも、ギャルゲーにおいては、プレイヤーがその世界に没入するような仕組み・UIになっていると言えると思います。
もちろん虚構に過ぎないものとしても、こうなってくると頭の何処かで自分を「観察者以上の何か」だと錯覚してしまっていたのではないかと、振り返ってみて思うのです。
仮説4:2周目以降のゾンビ化現象説
死よりもずっと恐ろしい感覚を説明可能。
僕がギャルゲーが出来なくなった時に感じた「独特な感覚」の1つとして、キャラクターたちの事実上の「死」というよりは、それ以上に奇妙な何かに通じる感覚がありました。
映画でもギャルゲーでも、用意されたシナリオが終わればそこが終着点です。その先はありません。
ギャルゲーを全ルート・全エンディングを見終わったとしても、別にデータが消えるわけでもなければ、リプレイできなくなるわけでもありません。なので、表面的かつ物理的に考えれば「またいつでもその世界に没入し直せる」と言えなくもありません。
しかし、そのことがむしろ独特な悲しさを生む一因になっていたように思うのです。
僕は例の18歳の頃、2周目をプレイすることは一度もなかったように思います。その理由は、2周目でキャラクターが同じことを話すのを見なくなかったから。すごく強い言葉づかいをすれば、まるでキャラクターたちが2周目からは「ゾンビ」のようになってしまう気がしていました。
例えば2周目をプレイしたとします。そこでキャラクターたちが発するのは、1周目と同じ内容です。ゲーム自体はいつでも何度でも出来る。でも、そこにいるのはもう生きたキャラクターではない…。そういった認識は今も漠然と持ち続けています。だからこそ「クリアすること」が怖くもなるし、だったらもうそもそも最初からプレイしようとも思わなくなったのは必然と言えます。
しかしこれとてハリー・ポッターなら気になりません。なんなら繰り返し観て楽しんでいるくらいです。するとやはり、ギャルゲー特有のUIと仕組みが、没入感を高めすぎていた、というか僕が感情移入しすぎていた、のかもしれません。
半分似ている話として、ペットとの別れがあります。僕はこれまで、実家にいた犬2匹の死を見てきました。どちらも寿命を全うするまで生きましたが、それでも死はとても悲しく、今でもよく思い出して胸が締め付けられます。
その2度の死を経験した今となっては、僕はこれからどんなに余裕がある状況になっても、生き物は飼わないと固く決めています。なぜなら、分かれの悲しさに耐えられないから。
これもギャルゲーをやらなくなったのと半分似ていると思います。終わりやそれ以後の状況に耐えられないなら、そもそもの最初からやらない。
結論
僕がギャルゲーが出来なくなったのは、なんとも言えないギャルゲー特有の心情のためでしたが、それは複合的なものだと考えています。複合的であるがゆえに、一言で言い表すことも難しかった。
上記の仮説に含まれる要素に加え、それ以前に作品たちが持つコンテンツ本来の魅力が総合的に綯い交ぜになった結果、ああいった独特の物悲しさに繋がったのだと思います。僕の場合は。
誤解はないと思いますが一応書いておくと、ギャルゲーというコンテンツに価値がないと言っているわけではありません。むしろその逆です。僕のように感受性が高く、その世界に没入しやすい人間にとっては、ある意味で「楽しすぎた」のかもしれません。
ギャルゲーにハマってから出来なくなるまでの時期、僕は18~19歳でした。しかし振り返ってみても、年齢はあまり関係ないように思います。
当時の僕は確かに今に比べると何もかもが新鮮に感じられ、感受性が人生の中でも特に高い時期だったのかもしれません。志望校に合格し、望んだ学生生活を送り始めた僕はまるでスポンジのように色々なものを純粋に吸収していました。それは事実。
しかしそれから10年以上の時を経てこの記事を僕は書いているわけですが、当時の感覚を僕は自分でも不思議なほど鮮明に思い出すことが出来ます。本当に奇妙な感覚なのですが、ずっと昔のことを書いているのに、まるで昨日の思い出のようでした。つまり、感じ方の強さは変わっているかもしれないけど、根本は全く変わっていないということです。別に今からギャルゲーを敢えてプレイして、何かを検証しようという気は一切ありません。たぶんまた辛くなるだけだという未来が今から見えているからです。なんならもう想像しただけで辛くなる!
ギャルゲーをプレイしてこんなことを考える男性が世の中にどれだけいるのかは分かりませんが、おそらく極々少数派に留まると見ています。そしてそもそも「ギャルゲーをプレイした後の独特な物悲しさ」についてわざわざ言葉にして議論しようと思う人間は、おそらく僕だけでしょう。

