ルーマニア生まれの作家、E.M.シオランの著作『生誕の災厄』(紀伊國屋書店)を読んだので感想を書きます。
この記事には本のテーマ上、厭世主義や反出生主義といった内容が含まれます。こういったテーマに共感できない方は不快になるだけだと思うので、読み進めないことをおすすめします。
ふだん買う本よりずっと高価でしたが、値段なんて気にならないくらい濃密で意味のある本でした。厭世的な思想に触れたい方には必読の一冊です。
アフォリズム集の形式を取る
この本はいわゆるアフォリズムの形式で書かれています。つまり、短文がずらっと並んでいるだけなので、ふつうの本のように系統立った書かれ方はしていません。
一応章立てにはなっているのですが、同じ章の中でも内容に統一性がなく、前後の順番もほとんど意味がないように見えました。
こういったアフォリズム集の本は読んだことがなかったのですが、少なくとも形式の点については読みやすいと思います。要はどこから読んでもいいので、適当に開いたページの目についた一節を読んでも何の問題もありません。
ただしまるで哲学書みたいな調子で書かれているため、内容は非常に難しく感じました。少なくとも半分は何を言っているのか飲み込めなかったと思います。これは僕の教養や読解力不足によるものでしょう。
それでも胸に深く突き刺さるフレーズはたくさん見つかりますし、端的に言い表されているものであれば中学生でも理解できます。それらを拾い集めるだけでも十分手に取る価値はあると思います。
綺麗事一切なしの厭世思想
この本を読もうと思っている、あるいは読んだ人は、多かれ少なかれ厭世的な価値観を持っていることでしょう。
もちろん、この本を読んだからといって読者の人生がいきなり好転するなんてことは絶対にありません。それでも、本書に書かれているシオランの思想に触れることで、気持ちが楽になる人はきっといると思います。というか僕自身がまさにそうでした。
というのも、この本には綺麗事が一切ないからです。ここまで厭世的思想を深めた本はないと思います。
本屋さんに行くと厭世的なタイトルで購買意欲をそそる新刊をちらほら見かけます。シオランまで読もうという人は、そういった今どきの本も少なからず目を通してきたのではないでしょうか。
僕もそれなりに触れてはきましたが、そういった本は僕にとって全て嘘っぱちでした。それっぽいタイトルで厭世的な読者を釣り上げ、多少寄り添う素振りは見せるものの、結局最後には綺麗事に終止してしまう。その度に僕はがっかりしてきました。
そもそもその著者本人が厭世的な思想をそこまで深めていなかったり、反出生主義に到達していない人物だったりします。これまで僕はこういった読書を通じた落胆を、裏切りだと感じていました。
しかし、僕のような読者を満足させる厭世的思想の本が出ないのは仕方のないこととも思います。なぜなら、現代の倫理観に抵触する本など発表した日には、批判の嵐に晒されてしまうからです。ネットに匿名で書くくらいならいいとしても、活字としては出せない。僕が出版社の人間だったら、リスクを恐れてこういう本はたぶん出しません。
『生誕の災厄』の最後には、復刊について次のように書かれています。
本書には、今日の人権意識から見て不適切な表現と思われる記述がありますが、作品が書かれた時代背景や作品価値を鑑み、かつ訳が既に故人であることとから、再版時の表記のままで復刊しております。
こういった状況を考えると、シオランの本はより光り輝いてくるように思います。
本書で書かれていることには建前も、綺麗事も一切ありません。「実際そうだよね」と、首がもげるほど頷きたくなる文句をバシッと言い当ててくれています。これまで読んで裏切られたと思った本は、やっぱり浅かったんだと確信することが出来ました。
シオランは厭世的思想の極限まで振り切った人物です。例えば彼は次のように書いています。
あらゆる罪を犯した。父親となる罪だけは除いて。
『生誕の災厄』 p.10)
僕のような読者は、ここまで言い切ってくれないと納得できません。
本書では、この引用文だけでなく最初から最後まで根底にはこういった価値観が貫かれています。
個人的な認識ですが、反出生主義に到達していない厭世的思想は正直浅いと思います。
人生が辛いとか言っておきながらちゃっかり子供は作っている人の本なんか僕は絶対に読みたくありません。
散々人生への愚痴をこぼした次の行で「子供を作りやすい社会になったらいいと思います」とか「もし僕に子供が出来たら…」と書いているのを見ると、「たった今書いたはずの厭世的なことは一体何だったんだ?」と思ってしまいます。僕だけでしょうか?
僕が知る限り、その点で思想を十分に深めているのはシオランとショーペンハウアーか、最近だと『Better Never to Have Been』の著者であるデイヴィッド・べネターくらいです。
同じ思想を持っている人はたくさんいるとは思うのですが、説得力のある読み物として世に送り出し、ある程度広く認知されているのか彼らくらいしかいないと思います。
読んでむしろ気分が軽くなる
そういうわけで、本書『生誕の災厄』は極限まで厭世的な本であると言えます。
しかしこれを読んでさらにネガティブな気持ちになるかというと実は逆で、人によってはむしろ気分が軽くなると思います。少なくとも僕はなりました。
なぜかというと、この本で一貫している厭世観に共感できる人には、「共感できた」ということそれ自体が精神安定剤として作用するからです。「こういうことを考えていたのは自分だけじゃなかったんだな」と思うとまるで肩の荷が下りるような、爽快な感じがします。
仮に自分が持つ厭世観を、世界中の誰とも共有できないとしたら、それ自体がとてつもなく辛いことです。
前述のいわゆる「浅い本」で感じた違和感が大きければ大きいほど、本書で得られる安息もまた大きくなると思います。
もちろんやっぱり人によって合う合わないはあると思いますが、厭世的な思想を深めた本を探している方には、ぜひ一度読んでほしいです。
最後に、個人的に一番刺さった一節を引用します。
出生しないということは、議論の余地なく、ありうべき最善の様式だ。不幸にしてそれは、誰の手も届かぬところにある。
『生誕の災厄』 p.276
参考図書
『生誕の災厄』を読む前に、『生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミスト・シオランの思想』という本で予習をしていました。
これはシオランという人物と思想を紹介する、いわば解説本です。ついでなのでこの記事の中で少しだけ紹介しておきます。
『生まれてきたことが~』の序盤1割くらいではシオランの生涯について紹介されているのですが、これが結構役に立ちました。
当時のルーマニアではエリート層の生まれであること、(少なくとも一時期は)奥さんのヒモ同然の生活をしていたこと、リウマチや不眠に悩まされていたことなど、シオランがどういう生き方をしていたのかが分かります。
(ちょっと脱線しますが、作家として大成する人はそれなりに裕福な家の生まれなことが多い気がします。ショーペンハウアーの父親は大商人ですし、畑違いですがドストエフスキーの父親は医者、など)
実際、それらの情報によって『生誕の災厄』で書かれていることの説得力が増した側面はかなりありました。
ただ『生まれなことが~』の内容のほとんどを占める思想の紹介を読むよりは、シオランの本に直接当たる方が手っ取り早く、それでも特に問題もないと思います。気になった方はこちらもチェックしてみてください。