人間は安心のためのストーリーなしに生きていけない(カラマーゾフの兄弟感想文①)

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』から個人的に読み取った内容について。

カラマーゾフは20代前半くらいに一度無理やり通しで読みはしたものの、当時はほとんど理解できなかった記憶があります。確かに表面上のストーリーはもちろん追えはしたのですが、「結局何が言いたい小説だったのか」についてほとんどと言っていいほど理解できませんでした。よく言及される「大審問官」のパートについても、結局それが何を意味しているのか分かりませんでした。

時は流れ10年後。30代前半の今、もう一度読んでみることにしました。この10年の読書のおかげか、以前よりは読みやすく感じ、内容についても「あの問題について言っているのかな?」と個人的に腑に落ちる部分を見つけることもできました(あくまで個人的にですけどね)。僕は別に読書家でも哲学者でもないですが、この10年の間の読書経験が多少は活かされたかもと思いました。

そういうわけで、この記事ではカラマーゾフの兄弟から個人的に読み取ったテーマについて、自分なりにまとめてみようかなと思います。

ただ、僕はこの本を隅から隅まで完璧に理解したとは全く思っていません。専門家でもない僕がそこまで深く理解するのは到底無理です。ドストエフスキーはこの本をまる2年かけて書いたそうです。違う時代に違う人生を送ってきた僕が2か月かけて読んで、その全貌を理解できる方がおかしいでしょう。

なのでこの記事では、他人からトンチンカンに思われる可能性を受け入れつつ、僕なりの解釈をあくまで自分なりに書いてみようという感じです。


カラマーゾフは全体を表面的に見ると、ある事件を中心とするサスペンス小説と言えます。しかしもちろんそれは表面的な話であって、そのプロットの中に色んなことが書かれています。

思うに、この小説を理解するためにはかなりメタ視点が必要だと思います。特に大審問官のパートはその典型ですが、人間が持つ普遍的な性質や、その構造をメタな視点から俯瞰した内容だからです。これを日常のミクロな視点から眺めても、本質は見えてこないと思います。

10年前の僕が全く理解できなかったのも無理はなく、当時の僕はこの小説を理解するために必要なメタ視点を持ってはいませんでした。人に明確に説明してもらえれば「まあそういう見方もできるかもしれない」とは思えたかもしれませんが、ただ1人で読んでいるだけではそこに至れませんでした。そもそも日常の中でそういうメタ視点を持つ機会がなかったので当然といえば当然です。

「この小説のテーマはこれ!」と1つに絞ることは僕には出来ませんでした。しかしよく言われるように大審問官のテーマはコアの一つと見ていいと思います。

大審問官のパートだけではありませんが、カラマーゾフでは「人間は安心のためのストーリーなしに生きていけない」というテーマに重きが置かれていると思います。もちろんこれは僕なりの表現で、もっと別な言い方も出来るでしょう。

自分でも上手くまとめられる自信がないのですが、1つずつ順序立てて言葉にしてみようと思います。


超いきなりな話ですが、まず大前提として、この世界には本来、何の意味も、ストーリーも、1+1=2のように確かな価値体系もありません。僕は個人的にこれを「この世界のむき出しの不条理」と呼んでいます。この表現で伝わるか分かりませんが、まずはここからスタートしなければなりません。

神がいない状況を仮定します。すると、人々を導いてくれる「正解」がなくなる。するともう何でもアリになって、「全ては許される」なんてことも言えてしまうし、どんな苦しみにも意味はなくなります。

この世界には本来何の意味もない。しかし、人間は意味がないということに耐えられない生き物です。知能が発達してしまったがゆえに、動物のようにその場その場で単純に生きることは出来ません。物事に対して意味を求めないと居ても立ってもいられず、何かしらの価値体系の中でしか生きることが出来ません。

(ちょっと脇道にそれますが、人間は個人だけでなく集団としても、ストーリー(価値体系、意味)の中でしか上手く機能しません。そのことはジョージ・オーウェルの「1984」でもよく描かれていると思います。)

だからこそ、宗教、つまり神の存在は常に誰かにとって必要とされているのです。神が物事の善悪やこの世界でどうあるべきかの「正解」を決めてくれる。そういうストーリーは非合理的ではあるものの、この世界の不条理を直視せずにいるためにとても便利なツールとして機能します。しかしここで重要なのは、宗教はあくまでそういったツールの分かりやすい例に過ぎないということです。宗教を信じていない人々とて、こういった非合理的なストーリーを何かしらの形で利用しているように僕には見えます。


人間は意味なしには生きられない。このことをよく表しているのはゾシマ長老のもとに集まった民衆たちだと思います。

民衆のうちに、こどもを幼くして亡くしてしまい、悲しみに暮れている女性が表れます。彼女はゾシマ長老に「この悲しみをどうしたらいいですか?」と尋ねる。するとゾシマ長老は、「こどもは天使になって神のもとで幸せに暮らしている・・・、だからあなたはそんなふうに悲しんではいけないよ」みたいな話をします。まあ僕(を含むある程度合理的な現代日本人)から見れば、こんなのは単なる非合理的なストーリーでしかないわけです。

しかし、ゾシマ長老が非合理的なストーリーを語り、女性がそれを信じていくらかでも安心するというこの小話は、特にイワンが言いたいことを理解するのに役立つと思います。

仮にゾシマ長老が非合理的なストーリーを語らずに、合理性に基づいた正論をぶつけたら?

まず人間には魂などというものはなく、我々の意識はシナプスとニューロンからなるネットワーク内の微細な発火の集合でしかなく、生物として死んだあとは何も残りはしない、というのが合理的・科学的な物の見方となります。また、僕がいう「むき出しの不条理」という前提から見れば、この女性の子供が幼くして死んだことにも、何の意味もないわけです。神もいなければ天使もいない。何のストーリーもない。良いも悪いもない。

ここで既に言及した「人間は意味がないということに耐えられない」という話が出てきます。こんな合理的な正論をぶつけられたら、この女性はこの世界のむき出しの不条理にそのまま正面衝突することになります。すると決して安心など出来ず、不条理の無限の闇の中へと真っ逆さまへ落ちていくのみ。

民衆たちは、人間にはストーリー(神)が必要であるという「構造」を俯瞰することはありません。その構造の中で(言わば盲目的に)生きています。一方で、ゾシマ長老は人々に何が必要かを理解した上で、構造の外側に生きています。これも1984とそっくりだと僕は感じました。


このようにむき出しの不条理に直面できないというのは、何もこの女性だけではありません。全ての人間がそういう生き物と言っていいと思います。だからこそ、不条理を直視せずに済むようなストーリーで現実を包み込んで、非合理的な安心の中で眠る。それが人間の本質だと、僕は個人的に理解しました。

これがそのまま大審問官の話に繋がっていくんじゃないかなと思います。

ストーリー(既存の意味、価値体系)の外側には自由があります。人は自由に価値を感じて、ストーリーの殻を破り、その外側にある荒野へと歩き出そうとする。つまり、自分なりの価値基準で物事を考えようとする。「本当に不死は存在するのか?」とか。

しかしストーリーの外側にあるのは、僕が言うところのむき出しの不条理だけです。ただただ何の意味もない、この世界のあるがままの状態。だから、不条理だけが存在する無意味な場所を彷徨い歩くよりも、ストーリーの内側で管理されながら生きた方が楽ではないか?というのが大審問官というキャラクターの台詞が意味する内容の一部だと思います。

新潮文庫版巻末の解説を読んで気づいたのですが、この辺りは「管理される側」と「管理する側」の両方の視点で考えることができて面白いと思います。大審問官というキャラクターを見ていると1984のオブライエンを思い出しました。


まとめると・・・

1.この世界は本来、何の意味もストーリーも価値体系も存在しない、むき出しの不条理そのものである(神がいないと仮定するとそうなる)
2.しかし人間という生き物は、むき出しの不条理を直視できない(=意味がないということに耐えられない)
3.よってこの世界を直視せずに済むようなストーリーが人間には必要となる

という理解の仕方をすると、個人的にはしっくり来ました。

(1)はイワンの「不死がなければ善もない」という台詞そのままです(若干曲解かもしれませんが)。神というストーリーがなければ、そもそも何の価値体系もないわけで、善いも悪いもない。あらゆる価値基準自体、人間がストーリーを通じて勝手に作り出したものである。だからこそ何をしても許されるという見方も生まれる。

(2)は、こどもをなくした女性の悲しみ。しかし、不条理を直視できないのは人間全員に当てはまる普遍的な性質。もちろん僕もそう。

(3)は大審問官の主張。人間は不条理の荒野で生きていけるほど強く器用な生き物ではないんだから、自由を求めようなんてことはせずに、ストーリーの中で安眠していればいい。

仮にこの解釈がいくらか妥当だったとしても、20代前半の自分はこういう考え方はまだ出来ませんでした。この個人的な解釈は、ここ10年の自分が考えてきたことを出発点として、どうにかそれと繋がるように導き出したものという感じがします。だからそんなに自信があるわけではありません。


カラマーゾフには思わずハッとさせられるシーンや表現がいくつも出てきましたが、個人的に一番面白いと思ったのはやっぱりこの辺りです。僕が特にイワンに自分を重ねたということもあり、彼が出てきて自説を喋りまくるいくつかのシーンはとても楽しく読めました。

大審問官まわりのテーマというのは、2026年の日本に生きる人々にもそのまま適用できるように思います。なぜならこれは人間が持つ普遍的な性質だからです。

日本人のほとんどは積極的に「自分は〇〇教徒だ」という認識で生きてはいないと思いますが、今の時代なりのストーリー(価値体系)で生きているのは変わりません。ただしその構造の中で生きている限りそれは見えてこないと思います。

ちょっとカッコつけたような言い方ですが僕はカラマーゾフを読む前から、「人間って結局、それぞれが一番安心できる価値観を1+1=2のような事実だと都合よく思い込んでるだけで、実際には何が正しいとか正しくないなんていう基準は存在しない。勝手に思い込んでるだけの主観どうしをぶつけ合っても何の意味もない。」みたいなことを超漠然とですが日常の中で考えていました。既に何度も読んでいた1984の内容はそのヒントになっていたかもしれません。だからこそ、そういう漠然とした感覚がはっきりと文章にされているのを見て、面白く感じたのだと思います。カラマーゾフだけでなく、ドストエフスキーの著書ではこういう「それだ!」と思うような瞬間がよくあります。

 

1つの記事に本全体の感想を詰め込むわけにもいかないので今回はこの辺で。本当は全体を系統立ててまとめたいのですが、果たして出来るかどうか・・・。