要約
・個人としての幸福が存在するとして、それはどこに、どんな状況に存在し得るか?
・現在の個人的認識としては、幸福は「没頭」の中にこそ存在し得るものだと考えている。
・その反対はメタ認知である。暇なときほどメタ認知して辛くなる。どうして生まれてきてしまったのかとか。
・よって、何か没頭し続けられる対象さえあれば、幸福感を抱き続けやすくなると見ている。
・継続性を考えるなら、消費型ではなく創作(出力、アウトプット)型の趣味が最も理想的。なぜなら終わりがないから。
・イラストは個人的に向いているかもしれない。
この議論はまず、幸福という主観的な印象が実際に存在するという前提に則っています。つまり、幸福は蜃気楼のようにいつまでも手に入らないものではなく、何かしらの方法や選択によって、生きている間に実際に抱くことができる印象であると仮定します。また、「生きている間に」というのもこの段階では極めて重要で、幸福感の強弱や好ましさを考える際、「存在自体が無である状態」との比較は行わないものとします。
正直個人的に幸福感という印象の存在可能性については、半分怪しく思っています。というのも、人間はやっぱり何かしらの「救済」を想定しないとやってられない生き物であり、何気なく使っている幸福という言葉・概念もまたそういった都合のいいストーリーに過ぎないとも考えているからです。例えば一部の宗教でいうところの死後の救済とか。あるいは戦後日本の標準的ライフコースをトレースした先で得られる自己肯定感とか。つまり僕たちは、「餌」がないとやってられないわけです。「きっとどこかに幸福があるはず。救いはどこかにはある。だからそれを追い求めよう」というわけ。僕はいつもいつも幸福でありたいと思っているのですが、それも結局のところ、「救済があってほしいという願望」に基づいている気がしています。これは少なくとも半分はアタリだと思います。
(幸福感なんてそもそもセロトニントランスポーター遺伝子の影響が半分とも言われていて、結局そういう話でしかないとも同時に思います)
とはいってもやっぱり宝くじが当たるのを夢見ていたいのと同じように、紛いなりにも幸福を追い求めないとやっていられないのが僕という人間です。では一旦その願望ベースの仮定を受け入れたとして、実生活でどうやって幸福を追求すればいいのか。これは0か1かの話ではなく、グラデーションの話です。つまり「今日はちょっと気分がマシだった」とか「不幸を忘れる時間を少し持てた」とか、そういう話でいいのです。
結論としては、冒頭の要約で述べたとおり、「何かへの深い没頭」こそが、現実的に追求可能な幸福感に繋がる手段だとほとんど確信しています。
没頭こそが答え
どうしたら幸せになれるのか?そもそも幸せとは何か?これまでの人生でどんな状況が一番幸せと言えたか?
こういった疑問の答えを出してみると、僕の場合、何かに没頭しているときが一番幸せだった、と言えます。気分が良かったというよりはむしろ、「気分の良し悪しという基準そのものから解放されていた」とも言えます。
仮にこの個人的な答えが自分の中で正しかったと仮定しても、一般的な見方と食い違うような節を感じます。というのも多くの場合、幸福というのは何かを成し遂げた瞬間(つまり出来事)や何かを成し遂げた先で得られる状況こそが幸せだと見なされているように、僕には見えるからです。
そういった分かりやすい要因(嬉しい出来事、理想的な状況)と比べると僕がいう「没頭」はあまりにもスケールが小さく、地味で、取るに足らないものに思えます。しかしそうは思うものの、僕の人生を振り返っても、やっぱり没頭こそが僕にとっての幸福に一番近いものだったという認識は変わりません。
誰しもそうであるように、僕の人生には良いことも悪いこともありました。個人的に偉業ともいえることを成し遂げて(嬉しい出来事を経験して)、望ましい状況を掴んだこともあります。その反対に、大きな挫折を味わったこともあります。前者の好ましい出来事や状況は確かに、僕にとって文字通り好ましいものであり、幸福感に大きく寄与していたことは間違いありません。しかし人間という生き物は慣れてしまうもので、どんなに良いことがあっても、それを次第に当たり前のことと見なしてしまうように思います。つまり、良いことは幸福感を一時的に高めてはくれますが、時間が経つにつれて幸福感はもとのセットポイントに収束していくということです。これは実感として確かだと強く思います。
(そのセットポイントは人それぞれ、セロトニントランスポーター遺伝子で決まっている説が僕の中で濃厚)
別に何かを成し遂げるのが無意味だとか、状況など幸福感に関係ないと言っているわけではありません。僕がいいたいのは、現実的に最も深く、日常の中で長く感じ続けられる幸福感があるすれば、寝食を忘れるほどの没頭にあるということです。
メタ認知(不幸の源泉的なもの)からの解放
なぜそうなのか。端的に言えば、没頭状態では他の様々なことを一時的にでも頭から締め出すことができるからです。個人的に最も注目すべきは、没頭は人間を一時的にでもメタ認知から遠ざけてくれるという点です。
メタ認知自体は別に必ずしも悪いもの、不幸なものではありません。しかし、実生活をどれだけグレードアップできたとしても、人間は次から次へと何かしら問題を見つけ出す生き物です。誰しも経験があると思いますが、ある時点で、実生活の問題Aを100の深刻度で悩んでいたとします。このとき、深刻度80の問題Bのことはそんなに気になりません。しかし、一旦問題Aが解決してしまうと、今度は問題Bの深刻度が100になって、またしても同じように悩み始めます。つまり、人間の頭というのは次から次へと何か問題を見つけては解決しようとする癖(くせ)があるように思います。
メタ認知は合理的思考などの場面でとても有益なツールであることは確かですが、上記のような悩みを作り出している一因にもなっていると個人的には日々強く感じています。身の回りの問題をあらかた片付けたとしても、「人生には一体何の意味があるのか」「なぜ生まれてきて、こんなにも面倒なことをやらなければならないのか」とメタ認知しだすと、幸福の反対、つまり不幸と言ってよい感覚が頭を支配し始めます。ある見方をすれば、幸福を追求するとは、不幸を遠ざけることと言ってもいいと思います。一般的に言って、「大きなプラスと大きなマイナスがある状況」よりも、「大きなプラスもないが、大きなマイナスもない状況」の方が、全体としては好ましいものとして扱われることが多いように感じます。例えば、英語100点数学20点の生徒は進級できませんが、英語も数学も60点の凡庸な生徒はギリギリ進級できます。これと同じです。
メタ認知はだめなものじゃない。でも、メタ認知をすればするほどこの世界や自分は問題だらけになって、不幸を感じてしまう。そこで、「必要な場面以外ではメタ認知が強く働かないような工夫をすることで、幸福を擬似的にでも追求できないか?」というアイデアが生まれます。
メタ認知を遠ざけるために没頭する=暇をなくす
余計なメタ認知をすればするほど不幸を感じやすくなる。ではどんなときにそういった余計なメタ認知をしてしまうのか?答えは単純。暇なときです。暇を持て余してやることや考えることがない、つまり意識を向ける対象がないときほどメタ認知しやすくなると感じています。
すると次にやるべきことは、なるべく暇をなくすことです。つまり、何か意識を向ける対象を見つける必要がある。生活の中でそういった対象になり得るものには様々な種類がありますが、個人的に最も理想的なものは「娯楽」だと思います。要はここまでの話をまとめると、「娯楽に深く没頭している一時的な状態こそ、最も理想的で強い幸福感に繋がる」というのが僕の主張になります。
娯楽が没頭の対象として好ましいのは、「面白いから好ましい」という単純な見方以上の意味を持っています。没頭する対象を見つけるにあたっては、取り組む時間を自分でコントロールでき、生活の空き時間の中に柔軟に組み込めるものが望ましいです。なぜなら、暇をピンポイントで狙い撃ちして抑制することができるから。
例えば、一般的に言って労働というものは、人間を暇という苦痛から一時的に解放するという側面を持っているように思います。しかし僕はそういった形で暇から解放されるのを理想的だとは全く思えませんし、また、労働という暇の埋め方は1日中利用することも出来ません。
意識を向ける対象である娯楽として、僕のこれまでの人生の中で最も合っていたのは「ゲーム」でした。ゲームほどコスパのいい入力型の趣味を僕は知りません。僕は飽き性なので様々な娯楽に手を出してきました。しかしゲームだけは小学生の頃から30代の今までずーっと続けています。ゲームをしている間だけは局所的・一時的にでも他のことを忘れて、その世界の没頭できる。そういった没頭状態が僕にもたらしてくれる感覚は、まさに現実に追求可能な幸福感とも言ってよいものでした。
こうして言葉にしてみるとあまりにも陳腐である感は否めません。しかし、一時的にではあるもの没頭がもたらしてくれる「擬似的な無の状態」は、他の何者にも代えられないほどの力を持っているように思います。やっぱり何度考えても没頭がもたらす感覚こそが僕とっては一番の幸福なのです。
消費型より創作型の娯楽が継続的で望ましい
好ましい没頭の対象(娯楽)として、どういった特徴を持つものが好ましいのか。この歳まで生きていて僕が思うのは、長い目で見れば何かを「消費する」タイプの娯楽よりも、「自分で作り出す」タイプの方が好ましいということです。なぜなら、後者の方は明確な終わりが存在せず、継続性があるから。
前述のとおり、僕は20年以上にも渡ってゲームという娯楽に没頭し、メタ認知を遠ざけ、紛いなりかつ一時的にでも自分なりの幸福感を(昔は無意識で)追い求めてきました。しかし近年になってそういった手法の問題点を痛感しつつあります。それは、ざっくり言えば「ゲームはクリアしたらおしまい」という点です。
ゲームは遅かれ早かれどこかでクリアが訪れるか、飽きます。モノによって長くプレイできるものもありますが、それでも人間は飽きる生き物で(なおかつ僕はエクストリーム飽き性なので)どこかで飽きます。僕は他にも読書も没頭の対象として利用してきましたが、正直、僕が読みたいと思える系統の本の頂点とも言える作品を読み尽くしてしまった感があります。例えば僕はオーウェルの「1984」が好きなのですが、この方向性でこれを超える作品はもうないと思います。ドストエフスキーの「カラマーゾフ」もけっこう近い内容ですがそれも読んでしまいました。アシモフのファウンデーションを超えるSF小説はもう出てこないと思います。シオランを読んでからは「もうこれ以上議論することはないな」とも思いました。そりゃ確かに別な軸の本を探せば名作はいくらでもあるのでしょうが、僕の興味がないので意味がありません。
そういうわけで、消費型の娯楽だけではどこかで限界が来ると感じています。ゲームも次から次へと新しいものが出ては来るものの、本当に没頭できる作品は限られています。もちろん今後もゲームは娯楽として楽しみ続けるつもりではあるのですが、それだけでは不十分であるという認識を近年僕はますます強めています。
そこで次に目を向けるべきは、創作型の娯楽です。消費型の娯楽をインプット型と表現するなら、ここでいう創作型の趣味はアウトプット型と定義することが出来ます。つまり、誰かが作ったものを楽しむのではなく、自分で何かを生み出すタイプの趣味であれば、継続性という点で圧倒的な強みを持ちうるということです。
ゲームはクリアしたら終わり。本も読み終わったら終わり。しかし、ゼロから何かを作る行為なら?もちろんそれにも飽きはくるでしょうが、消費型と比べたとき明確な終わりがないという点で別次元の時間的スケール性を持っています。これは消費型で問題だった「どこかで限界が来る」という障害を解決する健全な糸口になると見ています。
また、ある見方をすれば、創作型の趣味は実生活でのスキルを伸ばすという点でも優れているといえます。例えば絵を描いたり、彫刻を作ったり、手芸をしたり。別にお金になるとか、仕事にできるという意味ではありません。ここでいいたいのは、創作型の趣味を極めることは、現実世界での自分のレベルを上げることであるとみなせる、ということです。
ゲームの中で強くなっても、それはゲームという閉じた箱庭の中だけの話です。ゲームを終了すれば、以前と何も変わらない生身の自分と向き合うことになります。確かにそのゲーム内での成長を現実世界で発信するなどして、それを1つの創作とみなすこともできるかもしれません。しかしそれとて、元を辿れば明確な寿命が存在する消費型の娯楽に依存しています。
よっぽど特殊な設備がないとできない内容でない限り、創作型の趣味も隙間時間を柔軟に埋めやすい行為だと思います。つまり、日々の細かなメタ認知を狙い撃ちできる性質を備えているということです。
個人的にはイラストが向いているかもしれない
では僕が個人的に利用できそうな創作型の趣味は何があるのか。これはもう自分の中で答えが出ています。イラストです。
そもそもこの記事を書こうと思い立ったのが、最近イラストをよく描き始めたからでした。前述のとおり、以前からゲームを没頭の対象として長く利用してきたものの、最近になって継続性の限界が見え始めていました。同時に、創作型の没頭の対象こそが、そういった問題の解決策としてうってつけであるとも考えていました。僕は昔からちょいちょいイラストを描いてはいたのですが、正直趣味と言えるほどのものではなく、本当に気が向いたときの一時的な暇つぶしというに過ぎませんでした。
しかし今になって「もしイラストという娯楽を、ゲームと同じくらいのレベルの選択肢に出来たら?」と考え始めました。
自分で言うのもあれですが、僕はイラストは今でも上手くはないものの、その分野において「最初の一歩で躓かないタイプの人間」だと自分で思っています。どういうことかというと、特別な練習をしなくても、まあまあの形になる感じがしています。
例えば今年の夏は、ペンタブで下記のような模写をしていました。(線をなぞるのではなく、目で写し取る)
それからある日突然雷に打たれたように2Dアバターを作ってみたくなって、下記のようなオリジナル作品を描きました。色々ツッコミどころはあるのですが、自分でも「これまでの練習量に対する質」で言えば悪くないと感じています。
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この記事を書いている時点では、まだイラストを本格的な趣味として今後の没頭の対象として利用できるか、確信はありません。しかし大したコストもかけずに取り組めるわけですから、飽きるまで試してみようと思います。試してみても損はないでしょう。
もしもイラストが、これまでのゲームと同程度の娯楽になるとしたら、それは僕にとって幸福なことなのかもしれません。



